久しぶりのライフハック・ジャーナルになります。ハイエイタスの期間中に登録した方は初めてという場合もあると思いますし、もう登録していたのを忘れていたという方もいらっしゃるかもしれません。
あらためてご挨拶もかねて、私がいま何を考えているか、なにを書いているか、何を読んでいるかという話題についてまとめてみようと思います。おそらく、5分もあれば目を通すことが可能でしょう。
モータリティの感覚
先日ようやく50歳の誕生日を迎えたのですが、その直前にほとんど同年代の親類を病気で失うという出来事があり、その前後はひたすら物思いにふけっていました。
詳細は書けませんが、それは突然というわけではなく、ゆるやかなのに容赦のない、扉が一つ一つ閉じてゆくような、想像できないほどつらい事の成り行きでした。
そうした出来事の一週間後に私も50歳になったわけですが、やはりMortality、つまりは死すべき運命についての感覚を深めずにはいられません。
たとえばそれは「これから何をしようか」と考えるときに、それがもっている最終的な意味について考えないわけにはいかないといったことにつながります。寄り道はいつだって楽しいものですが、寄り道のもっている意味合いが少しずつ変化してゆくのです。
スキルがどこまでも伸びてゆくことや、賢さがどこまでも成長してゆくことを前提とした話題にも、もう私はついていけません。もともと私はそういったものに懐疑的でしたが、それが確信にまで深まってきます。
老子が「企(つまだ)つものは立たず、跨ぐものは行かず、自ら見(あら)わす者は明らかならず、自ら是(よし)とするものは彰(あらわ)れず、自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら伐(ほこ)る者は長(ひさ)しからず」と書いたことの意味がいよいよ身に沁みてきます。
背伸びをしたり、自分のほうが速いと無理をしたり、自分が自分がと売り込もうとしたところでそんな無理が続くわけがありません。
それよりは「曲(きょく)なれば則ち全(まった)し」、つまり自分の至らなさや思い通りにならない来歴を引き受けてこそ全うできる終着地点があるという考えが強まります。それは自分で選び取ったものなのか? それだけが問題となるのです。
Keep on Changing
なにか一つの定点が、変わることのない原則のようなものがあるとしたら、それは「やりかたを変えてゆくこと」だけなのではないか。それが最近よく考えることです。
どこかに到達しなければいけないわけではなく、誰かに認められなければいけないわけでもない、惰性ではなく、内的な確信があって、未来につながっていて、それでいて今日という日に人生が終わっても意味を失わない目標があるとするならば、それは常にやりかたを変えていたということに他ならないのではないかと。
こうしたことを書くと、「あいつは負け惜しみをいっているだけだ」「◯◯になれなかったので、そうした目標自体を無意味化しようとルールを書き換えているのだ」と言われてしまうことも予想できるのですが、そうした受け取られ方があること自体は否定しません。
世界は達成したできごと、成し遂げられた行為、書かれた本、語られた言葉などでできているので、それが見えにくく、外側からみたらなにもしていないのと違いがみえないのは不安で、あてにならないように見えてしまうのも理解できます。
それでも、すべての人にそうしたわかりやすい物語が書かれるわけではないことを、結末がだれにもわからないことを考えると、いまできることを肯定して、それ自体を目標とするのも悪くはないと思うのです。
巡礼はたとえ道半ばで斃れても、コンポステーラを目指していたことは記憶されるように、です。
より個人的な
そこで以前からの方向性ではあったのですが、今後はさらに「到達」ではなくて「過程」を「獲得」ではなく「変化」、といった話題について扱うことが増えるだろうという気がしています。
ブログはだれが読んでもよいように書かないといけませんが、このメルマガはより個人的な変化の動機や過程をシェアするのに使うのがよいはずです。おそらく長いあいだライフハックについて追ってきたみなさんなら、その背後にあるものが理解できるだろうと思いますので。
わかりやすい勝利や結論が常に出るわけではなく、獲得したものよりも失われたり忘却されるものが多く、不安や幻滅を感じている人にも届くような言葉がそこにあると信じていますし、それが自分を助けることにもつながるだろうと、おぼろげながら見えている状態です。
プロジェクト「ピンチョン全部読む」
今年は年始から断続的に「トマス・ピンチョンを全部読む」というプロジェクトを進めています。3月くらいまでにかなりの力を使って「重力の虹」は読み終えたのですが、順不同で進めているのでいまは「競売ナンバー49の叫び」を読んでいます。
「重力の虹」「V」を何度か読んでからもう一度戻ってみると、この中編の作品にピンチョンが現代を一種のパラノイアの時代、解釈されない情報過多の果てに渦巻く陰謀論の時代としてとらえていたモチーフがすべて揃っていることが見て取れます。
そしてそれは、フェイクニュースや遠い侵略戦争における情報戦、私たち個人の考えや発言の中にまで立ち入ってくる見えない審判といった形でいまもリアリティのある話だというのが理解できます。これこそが、ピンチョンをいま読む意味ですね。
このプロジェクトについてはいずれ連続記事でまとめようと思いますので、まだどこかで。