ここしばらく起こっている出来事のなかに、今後私たちを取り巻く情報の世界を左右するような不気味な流れがあります。
たとえばその一つがこちら。Reddit が API の価格を改定し、それにともなってサードパーティーのアプリが利用停止に追い込まれたという話題。Twitterがサードパーティーのアプリを締め出したのと事情は似ていて、公式が制御できない形でプラットホームが利用されるのを禁止するという措置です。
The Reddit app-pocalyse is here: Apollo, Sync, and BaconReader go dark | Verge
あるいはこちら。Twitterがログインしていないユーザーに対してツイートの表示を禁止し始めているというニュース。すでにTwitterのCEOの座を譲ったイーロン・マスク氏が「これは一時的な措置だ」というものの、おそらくそんなことはないのだろうというのは、この一年の流れを見ている人には明らかです。
Twitter has started blocking unregistered users | Verge
そして最新のややこしい事情がこちらのカナダの法律、Online News Actに伴うGoogleやMetaといった企業の対応についてです。Online News Actは、新聞やテレビといったメディアが提供する情報を利用する場合に、それを表示する検索エンジンやSNSに支払いを要求する枠組みを作る法律です。情報へのタダ乗りを防ぐという意味でメディア側に支持されている一方で、Google / Meta はカナダのローカルメディアをニュース欄から削除することを決定したため、経済的には逆効果になりかねない流れになっています。
Google is dropping local news links in Canada | Verge
Meta is yanking news from Facebook and Instagram in Canada - The Verge
情報世界が小さくなる
こうしたニュースの一つ一つには、それぞれの事情があります。たとえばRedditやTwitterの場合にはGoogleやOpenAIといった企業がサイトをスクレイピングして検索や機械学習のデータに利用している実態があるため、API利用に対して対価を支払ってほしいという論点と、その背後では独自の AI をトレーニングしている事情なども絡んできます。
GoogleやMetaが法律によってメディアとのレベニューシェアを求められる背景も少し似ています。たとえばGoogleはかつて検索を通して利用者を運んでくれましたが、いまではGoogle上でニュースを読めてしまうためにサイトへの流入につながらない、広告収益が伸びないなどの事情と絡んできます。
私たちユーザーからみると、これらはどれも情報世界が小さくなるだけでなく、Google / Meta / Twitter / Reddit などといった企業の論理と折り合う情報しか流れなくなるという意味で中立性の喪失に繋がります。
問題は二重に面倒です。たとえばカナダのニュースがGoogleに表示されないだけで、私たちはなにを知らされていないかを見つけられません。と同時に、GoogleからRedditのことを知るといった双方向性が弱くなります。それぞれのプラットホームがユーザーに自分の壁に囲まれた庭から出ることを禁止して、情報空間がRedditにいるひと、Twitterにいるひと…といった具合に分割されてゆくわけです。
いちユーザーとしては、自分の周囲に存在する壁をこえた世界の拡げ方に対して意識的でないと、どんどんと誰かが制御した情報の流れの中でしか判断ができなくなってしまいます。知的生活者にとってこれ以上に怖いこともありません。
ここにChatGPTのように、概ね平均点以上ではあるものの、ジェネリックで私という個人にカスタマイズされた尖った返事は期待するべくもないものが重なり合うと、ジェネリックな情報にジェネリックな答えだけの情報空間に囲まれる状態が完成します。
これに対する対策といったものはすぐには浮かびませんが、ひとまずは「自分の求める情報の尖り具合をどのような仕組みで担保するのか」「情報の壁の外側に片足を出しているようにするために、どんな情報収集の仕方がありうるか」は意識する必要があるはずです。
Now Reading: 玄人向けの読書体験が喜ばしい「中世哲学入門」
今週読んでいる本は、なかなか勧めづらいところがあります。「普遍論争」でも知られる山内志朗氏による新刊、「中世哲学入門」です。
中世哲学入門というからには、クラウス・リーゼンフーバーによる「中世思想史」のように、教父時代からスコラ学の時代まで、込み入った時代と哲学の系譜を列挙するタイプの本がイメージされますが、この本はまったく逆で、本当に限定された範囲での「中世の哲学とはなにか、そこにどのようにアプローチするか」が著者の学問的履歴とともに語られていきます。
しかも語り口が実にややこしい。「この概念はまだ説明するのは早いがとりあえず紹介する」「この概念を知らないと本質には迫れない」といった調子で、込み入った概念が出し入れされ、3歩進むと2歩下がる、1歩進んだかと思うと3歩戻る、といったように、方向性を保ったまま迷っているような論述が続きます。
では読みづらいのかというと、まったくそんなことはないのがこの本の不思議なところです。著者がリップサービス的な不正確な描写を避ける真摯な姿勢をつらぬいていて、中世哲学という光に目をすぼめながら歩んでゆく姿が魅力的で、読むのをやめられないのです。
とはいえ本書は、本書の知識だけでは到底歯が立たないという問題ももっています。「入門」というのは、本書の場合本当に入門することを求めているのであって、平易に一般の読者にわかりやすくまとめたとは言い難いのです。
しかも読んでいるうちに「あれ、こういう理解をしているのはひょっとして山内先生だけなのでは…」と気づき始めます。他の学者はなんと言ってるのだろうか。海外での理解はどうなっているのか。こんなことが気になり始めるので、見事に入門させられる本という面もあります。
内容も語りも、批判的に著者に寄り添うことができる読書の玄人向けで、だからこそ勧めづらく、でも語らずにはいられません。
私はそれこそ学生時代にウンベルト・エーコを読むために中世哲学の話題に触れ始めて、気づいたらずいぶんと本を集めて読み漁っていた邪道のファンですが、では中世哲学の何を理解していたのだろうかと考えると、なにも理解していなかったのではないかという疑いの念が高まってきます。そうして打ち負かされることがむしろ心地よくなるのは、入門書と呼ばれる本の中でも別格といっていいでしょう。
中世哲学の沼に沈む覚悟のある人だけがこの扉をくぐるべきですが、でも皆さん、もう興味が湧いてしまっていますよね。ぜひ書店で、まずは手に取ってページを開いてもらえればと思います。
中世哲学入門 ――存在の海をめぐる思想史 (ちくま新書 1734)
さて、今週の「ライフハック・ジャーナル」は以上です。もうそろそろ、ブログの方でちょっと新しいシリーズを始めますので、またこちらでも報告できると思います。
ではまた。
Happy Lifehacking!